<代表対談><br>~はじまりは発明品を作ること~<br>ファインドスターの軌跡 Vol.1

<代表対談>
~はじまりは発明品を作ること~
ファインドスターの軌跡 Vol.1

  • ファウンダー/株式会社ファインドスターグループ代表取締役

    内藤 真一郎

    株式会社ファインドスター 代表取締役

    渡邊 敦彦

第一回 創業から社名変更まで

 

-今回は連載で、ファインドスターの創業者である内藤さんと、現在の代表取締役である渡邊さんに、会社の歴史を振り返りながら話を聞いていきたいと思います。まず、設立時のことを教えてください。沿革によると1996年12月に前身となる株式会社アレストを立ち上げ、翌年の1月にインターネット接続機器「ラインチェンジャー」の開発事業をスタートしていますよね。

内藤:ラインチェンジャーは、とあるベンチャー企業で開発されていたものでした。ただ、そこが倒産してしまって世に出せなくなっていたんです。ちょうどそのころ、僕も友人のベンチャー企業で働いていたのですが、倒産してしまってフリーの状態にあり、何か新しい事業を起こしたいと考えていました。そこへラインチェンジャーの開発者から「一緒にやらないか」という話がきたんですね。それで立ち上げたのがアレストでした。

-ラインチェンジャーはどういう機器だったのですか?

内藤:1996年というと、まだYahoo! JAPANが立ち上がったくらいのころで、インターネットへの接続はまだまだダイヤルアップ(モデムを電話回線につなげ、インターネットプロバイダーに電話をかけて接続する方法)が主流でした。ただ、モデムは単独の電話回線にはつなげられるのですが、交換機を介するビジネスホンにつなぐことができなかった。そこで、ビジネスホンの電話機本体と受話器の間に噛ませてインターネットできるようにしたのがラインチェンジャーでした。

-ラインチェンジャーを見て可能性を感じました?

内藤:僕自身が会社でのインターネット接続に困っていましたからね。ビジネスホンの回線ではインターネットにつながらないので、交換機を介していないファクスの回線を使ってインターネットに接続していて。僕がインターネットを使っている間はファクスが使えないと怒られていましたよ。そんな経験があったので、ビジネスホンでインターネットができることの価値が分かりました。僕が困っていたのだから、みんなも困っているはずだと。そこはピンときましたね。

-会社を設立したとき、ラインチェンジャーの開発はどこまで進んでいたのですか?

内藤:設計が終わって試作機があるレベルでした。これから量産していこうというところ。それで、取りあえず1,000個作りました。

-1,000個ですか!?

内藤:はい。それで資本金がなくなりました。簡単に売れると思っていたんですね(笑)。ただ、現実はそんなに甘くなくて。当時、こういう機器の卸といえばソフトバンクがナンバーワンでしたから早速営業に行ったのですが、現場はまだまだ「インターネットって何ですか? パソコン通信の間違いじゃないですか?」という状態で。他も回ってみたものの門前払いで、途方に暮れていました。そんなとき、知人の紹介でベッコアメ・インターネット(1997年当時、最もポビュラーだったインターネットプロバイダーの1つ)の会員誌にチラシを入れてもいいよという話がきたんです。それでチラシを5万枚刷って入れさせてもらいました。

-5万枚ですか!?

内藤:はい。しかしこれが功を奏して500台売れました。半分はけたわけです。5万枚のチラシで500台だから1%ですね。これはいけると思い、その他のプロバイダーに1つずつ電話をして「会員誌はありますか? そこに広告を出したいのですが」とアプローチしていきました。そうやって販売数を増やしていったのが第1段階ですね。

-ちなみにそのころ渡邊さんは何をしていましたか?

渡邊:中3ですね(笑)。愛媛の田舎でバスケ少年をしていました。東京でそんなことが行われているとはつゆ知らず。

-そうですよね(笑)。事業はその後どういう段階に進んでいったのですか?

内藤:ある程度、販売の実績ができたころに、また知人の紹介でT-ZONE(秋葉原にあったパソコンショップ。現在は廃業している)の購買部長さんに出会いまして「これだけの実績があるのですが置いてもらえませんか」という話をしたところOKということになり、店頭での販売が始まりました。それに合わせて「インターネットマガジン」や「日経ネットナビ」といった雑誌に製品のプレスリリースを送ったところ取り上げてもらえて。問い合わせがあれば「T-ZONEで売っています」という案内をし、売り上げを伸ばしていきました。
そして、T-ZONEでの実績をもってラオックスのザ・コンピュータ館(秋葉原にあったラオックスのコンピュータ専門店。現在は閉館している。“ザ・コン”の愛称で知られた)に営業をかけたところ「T-ZONEでこれだけ売れるなら」ということで扱ってもらえることになり、さらにビックカメラやヨドバシカメラへと手を広げ、一気に全国に展開していったのです。ちなみにネットでも販売しましたが、そちらはまだ月に数台程度でした。

-ネットでの販売も始めていたのですか?

内藤:たまたま楽天さんの記事を見つけて。「楽天市場というインターネットモールができる」と。オープンするかしないかくらいの時期で、電話で問い合わせたらぜひにということで、弊社を合わせて13店舗でスタートしたと記憶しています。ただ、先ほども言ったとおり売り上げはほとんどなかったです。ネットでの販売が本格的になってくるのは、それから1年後くらいですね。

-きっかけは何だったのですか?

内藤:テレホーダイ(NTTが提供した定額制サービス。23時から翌日8時まで月極の一定料金で接続できた)が普及してネットユーザーの裾野が広がったことが大きかったと思います。そのころには自社のWebサイトを立ち上げて、そこでの売り上げが一番大きいくらいになりました。

-ラインチェンジャー以外には何か製造しなかったのですか?

内藤:作りましたよ。当時は「いろいろな発明品を作る」というコンセプトで会社をやっていて。例えば「カラオケボックスで歌いながらプリクラが撮れたら面白くない?」という発想でカラオケボックスに入れられるプリクラとか、植木鉢への水やりタイミングを知らせる装置とか。

-それ気になりますね(笑)。

内藤:ミズクレイという名前でした(笑)。植木鉢の中の水分量をセンサーが感知して、水分がなくなったらランプが光るという単純な構造です。あと、携帯電話の電波を妨害する機械は話題になりましたね。

-何やら不穏な響きですが……

内藤:いやいや、当時は携帯電話のマナーが浸透していなくて、病院や劇場、映画館などに一定の需要があったのです。これが日経新聞にも大きく取り上げられて話題になったのはいいのですが、最初の問い合わせが郵政省からで「それ免許取ってますか?」と。あ、免許が必要なんだ、まずいまずいみたいな(笑)。当時はめちゃくちゃやってましたね。

-そういった発明品作りはどのくらい続いたのですか?

内藤:2年くらい続けました。一方で、先ほどラインチェンジャーが自社のサイトで売れるようになった話をしましたが、そのことに関心を持つ人が周りに増えてきて「ウチにもサイトを作ってよ」という依頼をいただくようになったのです。そこで2年目くらいからWeb制作事業も手がけるようになりました。
発明品作りの方はラインチェンジャーを開発した創業パートナーが主にやっていたのですが、ラインチェンジャー以外は苦戦していて、彼はそちらに専念したいということで別会社を立ち上げ、僕はアレストでラインチェンジャーとWeb制作をメインに行うことにしました。

-Web制作の仕事はどのように拡大していったのですか?

内藤:自社サイトがよいサンプルになっていたので、取引先に「Webはこれからきますよ。絶対作った方がいいですよ」と勧めて。関心が高く、どんどん仕事が入ってきたので、どんどん人を雇って。一気に18人までいきました。人さえ入れば売り上げも上がる時代で、1997年前後はゴールドラッシュのようなものでした。返す返すもテレホーダイが画期的でしたね。あれで一気にWebが普及したんじゃないかな。

-当時と今で、Web制作のニーズに違いはありましたか?

内藤:いや、昔も今もそんなに変わらないですね。訴えたのは「お客さんをつかまえられます」「会社概要を作る手間が省けます」「サイトで商品が売れます」この3つです。そのうち、知人経由で広告代理店につながり「Webの仕事があったらウチに回してください」と営業して、広告代理店経由でも仕事が入ってくるようになり、主力事業に育っていきました。

 

・・・「第二回 社名変更から同封広告事業・比較サイトの運営まで」へつづく。

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